「原罪とは」 ローマ5:12~21

「小羊の会」2023年5月25日

★ 法亢聖親牧師からのメッセージ

「原罪とは」   信仰告白(日本基督教団信仰告白)3  ローマ5章12節~21節     
                        
 “原罪”と言う言葉を聞いたことがおありのことと思います。この言葉は、聖書にはありませんが、ローマ書5章12節以下などから、アウグスティヌスといった人々(神学者たち)がこうした言葉を造りました。英語では、オリジナル・シンと言います。(ラテン語:ペカトゥム・オリジナーレ)。
 オリジナルを“原”と訳しているわけです。この“原”とは、みなもと、おこり、原始、根源、起源と言った意味を持っています。つまり、原罪とは、一つ一つの具体的な罪と言うのではなくそれ以前の、人間であれば誰でもが生まれながらもっているような罪を指しています。
 聖書では、人間皆、罪人だ、正しい人間は一人としていないのだと主張しています。これは、言葉を換えて言えば、みんな原罪を持った存在なのだということができます。正しく完全なお方は、イエスさま以外いないのですから。
 アウグスティヌスは「傲慢はすべての罪の始まりである」と言っています。傲慢が「すべての罪のはじまり」といことは、的(まと)を得ているように思います。聖書には、堕罪物語がいくつかありますが、バベルの塔の物語(創世記11章)は、人間が神と同じになろうとしたことが人類の分裂の原因であることを伝えています。また、園の中央の木「善悪を知る木から食べてはならない、死んでしまう」(創世記2章17節)からと記されています。つまり神のようになり自分で判断することは、神から離れることであって、永遠の命の源である神から離れた死んだ状態となるからです。<神のようになりたいという人間中心の考え方と神に従いたくないという自己中心の考え方が、原罪>と言うことになるのではないでしょうか。こうした思いが誰の胸にもあるのではないでしょうか。
 パウロは、こうした根源的な罪=原罪の起こりを遠くアダムにまでさかのぼらせて考えています。つまり彼がエバと共に神によって禁じられていた木の実を食べたことによって、以来ずっと人類は、この原罪を受け継いできていると述べています。
 この原罪よりの救いは、どこにあるのでしょう。この点、パウロは「一人正しい行為によって全ての人が義とされて命を得ることになった」と言います。それはただ一人正しい主イエスの行為、十字架の死に至るまで神の意志に完璧に従いきられた行為、そして我ら罪人のために犠牲の死を遂げてくださった行為、この行為により私たちは義とされ、罪を赦され、永遠の命を与えられたのです。
〔参考〕 
☆原罪とは、「我々人間を深くそして広く犯している罪の常態的性質」、「罪の根本性と普遍性」のことと桑田秀延教授は語っています。
☆柏木先生がアメリカに留学された時、牧師に尋ねました。「罪と言うことが分かりません。」牧師さんは答えてくださいました。「『Sin』の中に答えがあります。」
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☆バルトの罪の3要素
 1、虚偽  2、怠惰 3、傲慢  私は、もう一つ責任転嫁があるように思います。
罪は、愛の対極にあり、原罪は、神の対極にあるものではないでしょうか。
神に従うためには、メタノイアが必要であると思います。メタノイアとは、回心、悔い改め、視点を変えるとの意味です(マルコ1章14節)。

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